2013/07/02

ケアナとカラダ

ちょっとしたきっかけで
20年ほど前(!)に日本で見た
Pina Bauschの作品を思い出した。

ちなみにお時間ある方
Pinaの映画、こちらでどうぞ(Arteをクリック)

http://www.myskreen.com/documentaire/arts/4032153-pina/

あれは、横浜だったかな。
寒い寒い海風の中、駅から遠いホールまで歩いて
大学の同級生と見に行ったのを覚えている。
チケットは一瞬で売り切れ、
やっとのことで取った場所は
舞台からそれはそれは遠くて、
元々目の悪い私は眼鏡を斜めにしたりして
夢中になってかじりついて観たのを覚えている。
すごく良くて毛穴というケアナが開ききったような感覚を
今でも忘れられない。

残念なことに、もうかれこれ16年ほど踊っていないので
その時に使っていたほとんどの筋肉や神経は
すでに引出しの奥の方にしまわれてしまって
忘れ去られてしまっている。
けど、何かのきっかけで
たまにそれがウズウズとする。
何かを見て、自分が踊りたくなった時だ。
もちろんガチガチに固まってしまった筋肉は
もう元に戻すことは難しいし
無くしてしまった感覚は取り戻せないので
気持ちだけが踊っているのだけれど、、、。

指の先から髪の毛の先まで神経がピーンと通っている感覚が
とっても好きだった。
今はもう無い。
せいぜい、小さなケアナ達がそれを思い出して
キャッキャと笑っているような
くすぐったい感じだけが残っている。
でもたまにそんな感触を味わうのも
悪くないな、と思えたりする。


2013/07/01

とにかく

辛抱治朗さんと岩本光弘さんの海難事故と救出の経緯を
読んだり見たりしていました。
彼の「日本人でよかった、」という言葉が
心に直接届きました。
とにかく正直な気持ちだったのでしょう。

すぐに1992年のグアムレースの「たか号」の海難事故を思い出しました。
私の父もヨットをします。
父はちょうどその時、
日本セーリング連盟のリジかなにか(要確認)を勤めていて
何日も寝ずに電話の対応や連絡などに追われていたから
記憶に強く残っている事故の一つです。

たか号が転覆した後、救命ボートで漂流し、
残り5人のクルーが一人一人亡くなり、27日後に
偶然通りかかった船に助けられた時は
佐野三治さん、一人だけが生き残っていました。
講演会の簡単な内容です
http://www.jofukuji.or.jp/lec_sano.htm

1年ほどしてから、ある機会に佐野さんを見かけました。
日に焼けて丈夫そうな人だなあ、という印象。
とにかく最初に思ったのが
「この人は、とにかく、生きたんだ」
ということ。
それをとても強く感じたのを覚えています。


今回の事故も賛否両論でしょうが、
私はとにかく、助かったお二人が
どれだけ自分の命に感謝しているのか
測り知れないほどなのでは、と思います。

2013/06/30

3拍子


http://www.youtube.com/watch?v=x-wsUUD7Zs8
三輪さんさすが!
おっしゃる通り。
イサギ悪い・ズルい・ハッキリしない
の3拍子じゃないですか。自民党。
長いことそれがまかり通って来たのも本当に驚きだけど
それをさらに継承しようとしている所がさらに驚き。

そして分かりやすい、魂のこもった三輪批判に対しての
応対のしかたがチンプンカンプン。
ぶつけられたソウルな意見には、
あなたのソウルで返事すれば良いのでは・・・?

決まったマニュアルから抜けられない
超・依存型、
まずいですね、これは。

2013/06/27

距離感

今日仕事が終わって娘が数日ぶりに戻ってきました。
今は彼女の父親と1週間交替で面倒を見ています。
今週はそれでも、歯医者や眼科に連れて行ったりと
2日おきくらいには彼女に会っていたのだけれど、
それでも1週間後に家にやってくると
私の知らない娘がそこに居ます。
知らない歌を歌っていたり、
ちょっと頭が良さげになっていたり
数字が少し読めるようになっていたり。

今日は「エ・ミ・ドゥ、セクシー!エ・ミ・ドゥ、セクシー!」
という歌をひたすらセクシーに、繰り返し歌っていました。
どこかで聞いていた音楽なのでしょう。
あんなセクシーな声を出す娘は見たことがありません。

よる、シャワーに入ったら、耳の穴の掃除をすることを伝えると、

それなら、タオルを片耳に入れて、それを反対側の耳から出して
みぎ、ひだりとゴシゴシすればすっごいキレイになるよ、

みたいなことを言ったりします。

それじゃ頭の中も空っぽになっちゃうよ、と言うと
大丈夫だよ、耳だけだもん、と。

すでに試してみたのか、と一瞬不安に、、、(笑
どこで聞いてきたのかしら。
ずいぶん得意そうに言っていました。
考えがだんだんと構造的になって来ている、、、。ビックリ!

ずっと一緒に居ると気になりすぎてついつい手を出しすぎてしまう母と
ずっと一緒に居ると距離が縮まりすぎてついつい甘えすぎてしまう娘。

お互い「意外と」神経質なので
これくらいの距離感も悪くはないのかな〜、なんて

、、、最近は都合良く思うようにしています。

Cadre (枠組み)



今日はdjembe(ジェンベ)というアフリカ太鼓のセッションに行ってきた。
私が習っている先生達と、上級の人達(25年のキャリアとか!)での
インプロのコンサートの後、生徒達全員がインプロに参加。
20人ほどでの1時間ほどのノンストップセッション。
 素晴らしかった!
こんなに空っぽになったのは本当に久しぶり。
その後のビールがおいしかったこと(笑

ジェンベには楽譜はない。理論もない。
人から人へと伝えられてきた、丸裸なまんまの音楽。
でもちゃんと決まったリズムがあるし、
そのリズムにはある程度右手と左手の順番も決まっている。
漁師のリズム、農民のリズム、儀式のリズム、結婚式のリズム、、、。
多少のバリエーションはあるものの、決まったリズムはどこでも同じ。
演奏する時は、Djouns(ジュン)という大きな太鼓達がベースのリズムを刻み、
それに合わせてジェンベの奏者は色づけをしていく。
そこに、ダンサーや歌が加わってものすごい厚みのある空間へと変化して行く。

その中で、ソロ奏者は自分の思うままに自由にリズムを刻み、
周りはそれを支えつつ、色づけもしつつ、
でも基本のリズムを崩さない。
いわゆる、ベースのリズム(枠組み)をちゃんと作ってから、
ソロ奏者はその枠組みの中で、あるいはそこからはみ出ようと、
自由に演奏するわけである。

その後、ビールを飲みながらたまたま人種とか社会とか宗教とかの話になって
cadre(枠組み)」という言葉が出てきた。
人はどこまで枠組みが必要なのか、という話。
もちろんなければないほど良い、という人と、
ある程度ないとダメだという人がいる。

そこで、なぜかふと、リリーフランキーの言ったことを思い出した。
「自由気ままな、なんの制約もない生活の中に本物の孤独なんて無い。
本物の孤独はありきたりな社会の中にある。
本物の不安は平凡な日常の片隅にある」

私的には、人間の身体それ自体がすでに精神の枠組みで、
人間の精神はその枠組みに宿りながらも
どこかで、そこからはみ出ようとしているのではないか、とも思う。
自由を求めているからである。
ただし、「はみ出る」ためにはそれを覆う「枠組み」が必要なわけで、
でもそこから「はみ出る」と、孤独になり、不安になってしまう。
それでは自由ではない。

では、本当の意味での自由とはなんなのか。

リリー・フランキーはこうも言っている
「ありきたりなことが真面目に行われているからこそ
人間のエネルギーはつくり出されるのだろう。」

どちらかというと、私はコレに大賛成である。
だいさんせい、というよりかハッと気づかされたのを覚えている。
ありきたりな自分の枠組みを、真面目に作るのである。
それからというものできる範囲で、
ありきたりなことを真面目にするようにはしているが
なにせ、慣れてないので、まだ初心者である。
それも、もっと自由になるために、、、である。

ジェンベからなぜかリリーフランキーへと飛んでしまったのが
なぜかよくわかりませんが。

とにかく今日のセッションの興奮と、その後の思わぬ強かったビールのせいで
早朝に目が覚めてしまって、
ダラダラとつづってしまいました。
オヤスミナサイ

2013/06/23

・・たいこと

髪の毛切りたい

本たくさん読みたい

お花の絵描きたい

自転車もっと直したい

展望台行きたい

顕微鏡を覗いてみたい

水族館行きたい


山の中で遊びたい


美味しいラーメン食べたい

江戸前のおそばが食べたい

恵比寿でゴハン食べたい

日本の友達に会いたーい!


もーや

自分のサイト全取っ替えしたくて
頑張っていますが。
もーや!
誰かやってぇ、、、と
一人でコーヒーがぶがぶ飲みながら(ま、一日3杯が限界なのだけれど)
悲鳴を上げております。
もうじき公開、、、のはず。